引き寄せの法則

集合意識と文化的遺産

私は、2003年から2005年まで、アメリカの大学院で勉強していました。その当時受けていた、都市政策学の授業の中で、教授が興味深い話をしていました。

アメリカの貧富の格差、とくに貧困層の多さは、今から20年ほど前の当時から、先進諸国の中で際立っていました。アメリカの都市行政に携わっている専門家、研究者なども、都市の貧困問題を無視してきたわけではなく、実に様々な対策をしてきて、真摯にとりくんできたわけです。しかしながら、貧困者向けの公共住宅を建てれば、そこがスラム化し、犯罪の巣窟になり、それゆえに、公共住宅で育った人たちは、ますます貧困から抜け出せない、という負のループに陥ってしまったわけです。途中から、貧困者向けの住宅が、最悪な政策であると気づいたので、1980年代以降は、むしろ公共住宅を意図的に破壊し、貧困者には、住宅費を援助するという、異なった所得世帯で、コミュニティーを形成する、 Mixed-income housing といわれる政策がとられるように変わっていきました。

そのような、住宅政策についての授業で、なぜ、公共住宅で育った人が、金持ちになれないか、ということについて論じていました。アメリカでは、公共の住宅というのは、もっぱら貧困世帯向けのもので、中流以上の家庭を対象にした公共住宅というのは、きいたことがありません。貧困世帯ばかりのコミュニティーなので、教育機会がない、治安が悪いなど、要因がいろいろありますが、教授が最も重要だと指摘していたことは、公共住宅には、文化的遺産 (cultural heritage) がないからというものでした。

ここでいう文化的遺産というのは、ユネスコのような第三者的な団体が、認定するような格式ばったものではなく、社会一般的な生活習慣に根付いた生活習慣など、もっと抽象的な概念です。つまり、貧困世帯のコミュニティーの文化的遺産は、中流階級向けのアメリカの一般的な郊外住宅でえられる文化的な遺産は、明らかに明確な違いがあるということです。

具体的に言うと、貧困者向けのコミュニティーで育つと、レストランで働くことは出来るけど、フランス料理や日本料理など、高級両店のシェフになれない。ヒップホップは踊れるけれど、クラッシックバレエを学ぶことは出来ない。歌を歌えることは出来るが、オペラ歌手にはなれない、というようなことです。貧困者向けコミュニティーで育つと、高級料理を食べる機会もないし、クラシックバレエやオペラをみることもないからです。

では、そういう文化的な体験をえられる機会を増やせばいいんじゃないか、と単純に思うかもしれませんが、実際はそんなに簡単ではありません。なぜなら、この文化的遺産は、潜在意識の集合的無意識に明確に刻みこまれるからです。

自分の潜在意識が、どのような集合意識をもっているかによって、自分にとって、快適だと思えるものは何か、が決まってくるということです。そして、その快適なものが、自分にとっての、文化的スタンダートになる、ということです。

この話は、アメリカの貧困世帯のコミュニティーの話ですが、同じような文化的遺産は、日本での生活習慣にもあります。日本人は、アメリカに比べると世帯間の経済格差と言うのは明確ではありません。しかし、自分が中流階級世帯に属しているという意識を持ち続けると、中流階級の 文化がスタンダードになり、自分の器が予め決まってしまいます。もし、あなたが引き寄せの法則を実行して、もっと裕福な暮らしがしたいと思っているのなら、自分の潜在意識がもっている、文化的スタンダートをあげていく必要があります。

例えば、緑のパッケージに入っている粉チーズばかり食べていると、本物のパルメジャーノレジャーノの味を知ることはありません。ニトリやイケヤの売っている家具が、自分にとって快適なインテリアだと思っていると、高級ホテルに泊まっても、自分の感覚としては、何がいいのかわかりません。何が高級なのか、というのを実体験として知ることも重要ですが、それ以上に、何を快適だと思うか、ということがはるかに重要です。

当然ながら、お金のブロックが強くなると、贅沢で豪華でお金のかかるものを、潜在意識は拒絶します。実際には、安ければ安い食事ほど、自分にとってはソウルフードだとか、高級ホテルなんて贅沢すぎて落ち着けない、なんて思っている人は、ますます、自分にとっての文化的スタンダードが下がります。その結果、ますます、貧乏になって、経済的な豊かさとは無縁の生活を送る、という負のループに陥るのです。

残念ながら、安いは正義だ、とばかりに、安さばかりが追及されて、過去30年間、日本人の集合意識において、文化的なスタンダートは著しく後退した感じがします。そして、もちろん、平成時代の30年間、先進諸国でただ一つ、日本経済はデフレ時代を邁進して、文字通り、貧しくなりました。少なくとも、昭和後期のバブル時代は、日本がこれからどんどん豊かになって、贅沢を堂々と謳歌できる、という、希望がありました。バブル景気が終了して、平成時代に突入したあと、安さと高率さばかりが追及されて、経済的に衰退したのはもちろん、精神的にも貧しくなってしまったように思います。

令和になって、インフレになりましたが、これは、経済的な豊さが回復しているというわけではありません。物価が上がる一方で、実質的な収入がともなわないので、生活はむしろ苦しくなっています。

一方、スピリチュアル的にみると、物質的な豊かさを追求する地の時代が終わり、精神的な豊かさを追求する時代が到来すると言われています。しかし、物心的な豊かさも、精神的な豊かさも相互補完的なものであって、どちらかが豊かになれば、もう片方が貧しくなるというものではありません。そもそも、ある程度物質的に満たされないと、精神的にみたされることはありません。まだ、精神的に満たされてないと、満足な仕事もできないし、仕事そのものが苦痛になるので、物質的にも困窮してしまうのです。豊かさの概念が変わる、風の時代だからこそ、豊かさとは何なのか、再認識しておいた方がいいと思います。

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