干支暦と二十四節気
四柱推命のように、暦の干支を使って占いをする場合、2024年は、2月4日が立春で、この日の17時27日をさかいに、甲辰の年にきりかわります。同時に、月の干支もかわり、乙丑から丙寅にかわります。このように、二十四節気の日を境にして、暦がかわることを節切 (ふしぎり)といい、節切によって月がかわることを、節月といいます。今回は、節月で使う、干支暦について、掘り下げてみたいと思います。
干支紀日法と六十干支
六十干支は、子、丑、寅など12個の支と、甲、乙、丙など、10個の干の組み合わせからなります。支と干には、陰と陽の区別があり、陰の干は陰の支と、陽の干は陽の支と組み合わせます。10個の干が、それぞれ6個の支と合わさるので、10×6で、60個の干支があります。甲子、乙丑、丙寅、と続き、60回で一周して、再び甲子に戻ります。
干支は、もっぱら、日付を記述する干支紀日法として使用されており、その歴史は古く、中国の殷の時代の甲骨文にも表れています。日本も中国も、実際に使用する暦は何度も改定されているのに、干支による紀日法は、3000年の時を経ても、断絶することなく用いられてきたのは、とてもすごいことです。いや、むしろ、暦の仕組みがころころと変わるからこそ、特定の日付を確定できる、干支が必要だったのかもしれません。
日本でも、年の干支によって、歴史的な出来事を命名することが少なくありません。戊辰戦争、壬申の乱、辛亥革命などが、その一例です。出来事だけでなく、阪神甲子園球場のように、竣工した年の干支を使って、建造物を命名することもあります。
干支を構成している、12個の支は、木星の公転周期に起源があります。およそ12年で黄道を一周する木星は、中国では、歳星と呼ばれ、木星が天球の赤道のどの位置にあるかで、年を観測していました。この木星による歳星紀年法で、年を記述するために使っていた十二辰が、現在でも使われている、子、丑、寅などと呼ばれる十二支の原型です。
もともと、十二支が、木星の公転周期と関係があったと理解すれば、年の十二支で、運勢を把握するという占い手法は、とても理にかなった手法と言えます。
十二支に動物の名称があてがわれたのは、中国の紀元前200年ごろの秦の時代で、かなり後です。十二支を動物名で説明することによって、干支の本来の意味が失われたような気もします。実際に十二支にあてがわれる動物は、国によって、かなりの違いがあります。例えば、未は、山羊だったり、羊だったりします。卯の動物も、兎や猫、寅は、虎か豹など、その国でなじみのある動物にあてがわれています。
一方、十干の歴史も十二支と同様に古く、十二支と同様に、殷の時代までさかのぼります。月の前半、10日を旬とよび、10日ごとにそれぞれの名前をつけたのが、始まりと言われています。
しかしながら、殷の時代から、六十干支に、現在のような陰陽五行理論があてがわれたわけではありません。陰陽思想と五行思想が結びついて、陰陽五行説が生まれたのは、中国の春秋戦国時代と考えられています。それでも、六十干支の干と支の結びつきには、陰陽の区別がされているので、陰陽思想は、干支紀日法と同じくらい古くからあったと、考えるのは極めて妥当です。
年干支と月干支
干支は、暦の仕組みが変わっても、六十干支を順序通りに記載するだけなので、単純で分かりやすく、特定の日付を判別するのに役立ちます。とくに、日干支は、60個のパターンをぐるぐると順序通りに割り振るだけです。明治時代になって、新暦に移行した直後でも、日付を連続的に数えられるように、暦に掲載されていました。とくに、朔日 (新月)の日干支を月朔干支、立春など節気の日干支を節季干支と呼んで、重要視していました。
一方、月干支と年干支の割り振り方は、もう少し複雑です。そもそも十二支は、天球の赤道上にある、木星の位置を把握するために使っていた十二辰が原型です。年の経過を把握するための十二支が、一年の季節の変化を表すようになり、さらに、寅の月を一年のスタートの正月とするようになったのは、中国の夏の時代ごろだとされています。
今日の太陰太陽暦の暦では、月干支の割り振り方は、正月を寅月として固定し、一年のスタートとする干支暦が定着しています。そして、江戸時代の一般的な暦では、暦月に対して、月干支が用いられました。
太陰太陽暦の暦では、閏月があると、一年は13か月になり、十二支だけでは足りなくなります。閏月の場合は、干支は記載されないか、もしくは、本月と同じ干支が使われました。本月と閏月をあわせて、60日以上になることはないので、同じ干支が使われていても、月日が混合されることはなかったと言えます。
一方、四柱推命など、干支暦を使った占いでは、二十四節気の節月に割り振る方法が用いられます。月干支は、二十四節気の節気の日時で、月の干支が切り替わります。節気というのは、立春、啓蟄、雨水など、グレゴリオ暦の月では、月の前半にくる二十四節気です。この節気の切り替わりの日時を節入りと言います。節入りを境にして、月の干支もかわるし、立春の節入りでは、年の干支もかわります。
国立天文台が発表している、2024年の節入りの日時をもとにすると、二十四節気による日干支と月干支は以下のようになります。
四柱推命など、干支暦を使って行う占いでは、節入りの時刻は、非常に重要なデータになります。生まれた時刻を使用しない占う場合でも、節入り前後に生まれた人は、月干支と日干支に影響がでてきます。とくに、2月4日ごろに生まれた人は注意が必要です。生まれた時刻がわからない場合は、両方の可能性を考慮して、命式を作成する必要もでてきます。
二十四節気に基づいて、節入りの時刻を境にして、干支暦を割り当てる方法は、五行のエネルギーをより正確に把握する、という原理原則にかなっています。五行のエネルギーは、月の満ち欠けよりも、季節のうつりかわりをあらわす、黄道上における、太陽の位置の方が、はるかに大きな影響があるからです。
干支暦を使う占いの起源は非常に古く、中国の殷の時代にまでさかのぼります。しかし、四柱推命が日本に伝わったのは、江戸時代の後期です。さらに、干支暦を使った占い手法が、今日のように、誰にでも占えるように、系統だててまとめられたものの多くは、グレゴリオ暦を使うようになった、明治以降の偉人たちの手によるものです。
実際に、戦国の武将など、歴史上の人物の命式を出す場合も、当時使っていた、干支暦をそのまま使うわけではありません。当時の太陰太陽暦をユリウス暦に変換し、さらにユリウス暦をグレゴリオ暦に変換して、二十四節気と照らし合わせて、命式を割り出すという手法がとられています。
このように、暦の歴史を深堀すると、干支暦では旧暦の暦を使っているからとか、旧暦の暦では立春をお正月にしているからとか、いう説明は、如何に曖昧なものであるか理解できるはずです。旧暦で使われていた干支暦は、多くの場合、そのままでは占いには使えません。また、旧暦の太陰太陽暦では、必ずしも立春を含む月が、正月になるとは限らないのです。
デジタル化が進んだ現代では、暦を単純なグレゴリオ暦に一本化して、シンプルな記号にまとめられつつあります。しかし、私たちが、旧暦といっている太陰太陽暦は、グレゴリオ暦よりもはるかに複雑だし、昔の人は、太陰太陽暦以外の暦も併用していたのです。暦に対する認識も深めていくと、暦を使ってする占いも、より理解が深まるはずです。